親鸞会の機関誌は『顕正新聞』である。
毎月2回発行される。
『顕正』とは、正しいものを顕らかにする、という意味で『顕正』。凄い名前だ。
以前、講師に聞いたことだが、「まだ親鸞聖人の教えを知らない人に、正しい教えを顕らかにするだけではなく、自分自身にも顕らかにしましょう、という意味が込められています」といった説明を受けた。なるほどそうか。
いつも新聞は法話に参加した時に受け取るが、年末となり都合のいい法話がないと、わざわざ担当の人が届けて下さる。
しかも、顕正新聞1月1日号は、きちんと封筒に入れられて、のり付けしてすぐには出せないようになっている。
「1月1日号は、1月1日になってから読ませてもらいましょう」とのこと。
1月1日号は、毎年高森先生の「年頭所感」が掲載されている。年頭なので、やはり前年の年末に読まず、新年を迎えた心で読ませてもらおう、ということだ。
なるほど、しかし、そう聞くとフライングしたくなるのが人間の心というもの。
自分の生活を振り返れば、大晦日も元旦もそう変わらない。年の瀬だからと言って、そんなにのんびりできる環境にはいない。
「新年を迎える」という気持ちは、毎年そんなに感じるものではない。食べるものも、普段とそう変わらないし。
だからこそ、いいじゃないかと思う。
1月1日号を1月1日に拝読して、新たな気持ちを作ることも。
「読む」という行為は、案外、「神聖」なるものなのだ。
2007年12月30日日曜日
2007年12月13日木曜日
親鸞会と寺の法話を聞き比べ
先の話で、寺に門前払いされた人に聞けば「寺の法話は世間話で、肝心の教えを説かない。読経をして、その意味について教えてくれと頼んでも、少しも話しはしない。親鸞会では、後生の一大事をきちんと説いてくれるからいい」といって、特に門前払いをされたことは痛くもかゆくもないようだ。
お寺の法話と、親鸞会の法話をかけもちで聞いている人も、当然存在する。
そのことで、知人と話をすることがあったのだが、その人が言うには
「別にどちらに行こうが、付き合いもあるだろうし、本人がそうしたいのなら別に仕方がないことだから止めもしない。だけど、親鸞会の法話とお寺の法話を聞き比べれば、違いが分かって余計にいいのではないかと思っていますよ。」
と、余裕の構えを見せた。門前払いとはえらい違いだ。
自信があるのだろう。事実、講師の先生は、教えについて自信たっぷりで話される。
確かに、正信偈や御文章などの根拠を示して、その意味を詳しく丁寧に解説するという親鸞会の法話は、魅力的だし、よく理解できて分かりやすい。
昨日も、正信偈の「善導独明仏正意」以降の部分について、高森先生のビデオ法話を聞かせてもらった。
正信偈の1行で、ここまで時間をかけて話をされるか、と驚きでもあるが、聞けば「初めて参詣した人でも分かるように、常に説法されている」と講師が説明してくれた。
そういったことを念頭にご説法されているのなら、懇切丁寧な内容になるのは当然だと思った。
「分かってもらいたい」という思いが伝わる。
寺の住職さんの話には、そんな思いは、確かに伝わってくるものではなかった。
お寺の法話と、親鸞会の法話をかけもちで聞いている人も、当然存在する。
そのことで、知人と話をすることがあったのだが、その人が言うには
「別にどちらに行こうが、付き合いもあるだろうし、本人がそうしたいのなら別に仕方がないことだから止めもしない。だけど、親鸞会の法話とお寺の法話を聞き比べれば、違いが分かって余計にいいのではないかと思っていますよ。」
と、余裕の構えを見せた。門前払いとはえらい違いだ。
自信があるのだろう。事実、講師の先生は、教えについて自信たっぷりで話される。
確かに、正信偈や御文章などの根拠を示して、その意味を詳しく丁寧に解説するという親鸞会の法話は、魅力的だし、よく理解できて分かりやすい。
昨日も、正信偈の「善導独明仏正意」以降の部分について、高森先生のビデオ法話を聞かせてもらった。
正信偈の1行で、ここまで時間をかけて話をされるか、と驚きでもあるが、聞けば「初めて参詣した人でも分かるように、常に説法されている」と講師が説明してくれた。
そういったことを念頭にご説法されているのなら、懇切丁寧な内容になるのは当然だと思った。
「分かってもらいたい」という思いが伝わる。
寺の住職さんの話には、そんな思いは、確かに伝わってくるものではなかった。
2007年12月4日火曜日
寺との関係 信仰の自由
もともと、寺と全く関係がなかった訳ではない。
今は亡き両親の法事はもちろん、寺にお願いしてきた。我が家は浄土真宗本願寺派だ。
住職さんは龍谷大学を出て、そのまま大学教授になった人で、寺を不在にしていることも多い。法事となれば、若住職か、坊守さんが来ることが多い。
我が家で行なう法事には、もちろん説法もあった。
昨年行なった母の法事では、観無量寿経の読経の後に、王舎城の悲劇の説法をされた。
「親不孝なアジャセも、最後は仏法を聞いて懺悔した。こういった法事を縁に、家族みなさんで仲良くされることが、亡き人の喜ぶことになる」といった内容だった。
別にそんな法事を悪くいうつもりはない。
ただ、親鸞会にしてみれば、「親鸞聖人のお言葉も出さない」説法であることには違いない。
話は変わるが、宗教のことで以前、住職さんに相談したことがある。
というのも、私の親戚に「手かざし」をする新興宗教に熱心になった人がいた。
家族の人が、かなり困った様子だったので、何はともあれ宗教のことなら寺に相談してみようと、住職さんに聞いてみた。
住職曰く「まあ、信仰の自由ですから、とやかく言えるものではありません」
信仰というのはその人の気持ちだから、周りの人があれこれ言えるものではない、周囲が問題視せずに逆に暖かく見守る方向で考えたらどうか、という話だった。
言われればそうなのだが、その時は何となく釈然としなかったのを覚えている。
その後、私が親鸞会で話を聞くようになってから、一度住職に話をする機会があった。
「あのー、親鸞会というのはご存知ですか」
「はあ、それは危ないですね」
その住職の返答を聞いて、それ以上は話はしなかった。
手かざし宗教を相談した時の対応と、随分と違う。
おまけに、それだけではなかった。同じ寺の門徒で親鸞会の会員になった人がいるのだが、その人は坊守から「もう寺には来ないでください」と言われて、門前払いをくらったそうだ。
信仰について、周りがとやかく言わずに暖かく見守ろうと言ったのは、どこのどなただったろうか、と私は思ったものだ。
今は亡き両親の法事はもちろん、寺にお願いしてきた。我が家は浄土真宗本願寺派だ。
住職さんは龍谷大学を出て、そのまま大学教授になった人で、寺を不在にしていることも多い。法事となれば、若住職か、坊守さんが来ることが多い。
我が家で行なう法事には、もちろん説法もあった。
昨年行なった母の法事では、観無量寿経の読経の後に、王舎城の悲劇の説法をされた。
「親不孝なアジャセも、最後は仏法を聞いて懺悔した。こういった法事を縁に、家族みなさんで仲良くされることが、亡き人の喜ぶことになる」といった内容だった。
別にそんな法事を悪くいうつもりはない。
ただ、親鸞会にしてみれば、「親鸞聖人のお言葉も出さない」説法であることには違いない。
話は変わるが、宗教のことで以前、住職さんに相談したことがある。
というのも、私の親戚に「手かざし」をする新興宗教に熱心になった人がいた。
家族の人が、かなり困った様子だったので、何はともあれ宗教のことなら寺に相談してみようと、住職さんに聞いてみた。
住職曰く「まあ、信仰の自由ですから、とやかく言えるものではありません」
信仰というのはその人の気持ちだから、周りの人があれこれ言えるものではない、周囲が問題視せずに逆に暖かく見守る方向で考えたらどうか、という話だった。
言われればそうなのだが、その時は何となく釈然としなかったのを覚えている。
その後、私が親鸞会で話を聞くようになってから、一度住職に話をする機会があった。
「あのー、親鸞会というのはご存知ですか」
「はあ、それは危ないですね」
その住職の返答を聞いて、それ以上は話はしなかった。
手かざし宗教を相談した時の対応と、随分と違う。
おまけに、それだけではなかった。同じ寺の門徒で親鸞会の会員になった人がいるのだが、その人は坊守から「もう寺には来ないでください」と言われて、門前払いをくらったそうだ。
信仰について、周りがとやかく言わずに暖かく見守ろうと言ったのは、どこのどなただったろうか、と私は思ったものだ。
登録:
投稿 (Atom)