もともと、寺と全く関係がなかった訳ではない。
今は亡き両親の法事はもちろん、寺にお願いしてきた。我が家は浄土真宗本願寺派だ。
住職さんは龍谷大学を出て、そのまま大学教授になった人で、寺を不在にしていることも多い。法事となれば、若住職か、坊守さんが来ることが多い。
我が家で行なう法事には、もちろん説法もあった。
昨年行なった母の法事では、観無量寿経の読経の後に、王舎城の悲劇の説法をされた。
「親不孝なアジャセも、最後は仏法を聞いて懺悔した。こういった法事を縁に、家族みなさんで仲良くされることが、亡き人の喜ぶことになる」といった内容だった。
別にそんな法事を悪くいうつもりはない。
ただ、親鸞会にしてみれば、「親鸞聖人のお言葉も出さない」説法であることには違いない。
話は変わるが、宗教のことで以前、住職さんに相談したことがある。
というのも、私の親戚に「手かざし」をする新興宗教に熱心になった人がいた。
家族の人が、かなり困った様子だったので、何はともあれ宗教のことなら寺に相談してみようと、住職さんに聞いてみた。
住職曰く「まあ、信仰の自由ですから、とやかく言えるものではありません」
信仰というのはその人の気持ちだから、周りの人があれこれ言えるものではない、周囲が問題視せずに逆に暖かく見守る方向で考えたらどうか、という話だった。
言われればそうなのだが、その時は何となく釈然としなかったのを覚えている。
その後、私が親鸞会で話を聞くようになってから、一度住職に話をする機会があった。
「あのー、親鸞会というのはご存知ですか」
「はあ、それは危ないですね」
その住職の返答を聞いて、それ以上は話はしなかった。
手かざし宗教を相談した時の対応と、随分と違う。
おまけに、それだけではなかった。同じ寺の門徒で親鸞会の会員になった人がいるのだが、その人は坊守から「もう寺には来ないでください」と言われて、門前払いをくらったそうだ。
信仰について、周りがとやかく言わずに暖かく見守ろうと言ったのは、どこのどなただったろうか、と私は思ったものだ。
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