2008年2月8日金曜日

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

2月3日は親鸞会のご法話で富山に参詣した。
幸い、心配された雪は無く、交通にも全く問題はなかった。

親鸞会館でのご法話は、正信偈について続けて話がなされているが、先月に引き続き
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
の部分についてのお話だった。

特に、阿弥陀如来の本願についての解説が内容の中心となった。
「若不生者不取正覚」の「生」の意味について、その意味の根拠は、本願成就文に求めなければならない、それは成就文の「即得往生住不退転」に釈尊は明らかにされている、という内容であった。
私と一緒に参詣した知人は
「往生の意味がよく分かった。参詣してよかったわ」と喜んでいたのが印象深い。

「往生」と言えば、以前親鸞会の講師から聞いた話だが、「岩波仏教辞典」の「往生の表記」について、一悶着あったそうだ。
それはかれこれ20年ぐらい前になるそうなのだが、「往生」を現世のことにするのか、死後のことにするのか、仏教辞典の内容について、軽い論争があったのだそうだ。
つまり、往生とは死後の成仏についてのみ、という本願寺派側の主張、
現世での往生もあるとする大谷派の主張があり、もめたらしい。
親鸞会としては、「親鸞聖人の著作には、両方の意味がある」という内容で提言したようだ。

知人の語っている姿を見て、ついそんなことを思い出していた。
関係ないが、辞典と言えば、最近めくることがない。
インターネットに慣れると、検索で調べたいものが一発で出てくる。便利なのはいいが、これでいいのだろうかという気すらする。
便利なものを求めていると、別のところで大切な物を失っていることさえある。
楽を求めるのは、ご用心だ。

2008年1月29日火曜日

知らない間に叔父が読んでいた親鸞会の書籍

町での寄り合いがあった時の話。

酒が入った席で、突然私の叔父から「お前、親鸞会に行っているのか?」と聞かれた。
突然だったので言葉につまったが「ああ、そうだよ」と答えると、
「そうか、わしは隠れ親鸞会ファンだからな」と言ってきた。
どういう訳かと聞いてみると、何でも親鸞会発行の書籍をどこからともなく取り寄せて、こまめに読んでいるという。

主に高森先生の「こんなことが知りたい」シリーズや「白道燃ゆ」などだそうで、私には全くの初耳だった。
何でも、「本願寺なぜ答えぬ」の本を売りにきた人があったそうだ。それも昭和の随分前の話である。
その時から、親鸞会には興味を持っているらしい。

「それなら、一度、親鸞会の法話に来てみろよ」と誘ってみるが、
「そこまではいい」と、すげなく断ってくる。

まあ、それは仕方が無いので無理には勧めないが、それにしても意外なところで親鸞会に興味を持つ人がいたものだと思った。

2008年1月19日土曜日

アニメ解説「親鸞聖人と王舎城の悲劇」

1月13日は親鸞会館でのアニメ解説だった。

アニメと言っても、世間一般のテレビ番組であるようなアニメのことではない。

アニメ「世界の光・親鸞聖人」の内容について、高森先生が解説される法話である。いや、法話と言うと語弊があるだろうか、高森先生やアシスタントの講師は椅子に座って、ややざっくばらんな雰囲気がある。
それを反映してか、受講者から手を挙げて質問を受ける時もある。
突発的に入る質問は、たまにどうでもいいような質問内容も見受けられるが、高森先生は優しく答えられるのが印象深い。


話を元に戻すと、今現在のアニメ解説は「親鸞聖人と王舎城の悲劇」のアニメの解説である。

この「王舎城の悲劇」のアニメは1時間半もある大作である。特に後半に入れば観無量寿経の核心に触れるので、解説にかけられる時間は、相当なものになるだろうと予想される。

そもそも「王舎城の悲劇」のアニメは、親鸞聖人のアニメの第4部と第5部の間で制作されたものだという。
というのも、親鸞聖人のアニメ第5部では日蓮が登場し、法華経をふりかざして浄土真宗を誹謗するという内容を含むのであるが、そのアニメを見せる前に、「王舎城の悲劇」を見せる必要があると思われてのことだ。

つまり、釈尊が霊鷲山で法華経の説法をしている最中に、韋提希無人の悲痛な叫びを耳にされ、韋提希救済の為に法華経を中断されて王舎城へ向かわれた。韋提希夫人に説かれたのは、まぎれも無く「観無量寿経」の説法であった。
法華経と観無量寿経は同時の経であると、蓮如上人が御文章の中で教えられる所以がここにある。

このことから、釈尊出世の本懐の中の本懐は、法華経ではなく観無量寿経、阿弥陀仏の本願にある、ということであり、親鸞聖人の第5部を見てもらう前には、抑えておきたい内容なのだ。
以上は支部長から聞いた話。



さて、13日の解説では、「韋提希夫人と同じになる信心とは」という質問で、ほぼ午前中を高森先生は使われた。
正信偈の中の「与韋堤等獲三忍」のことであり、三忍とは何かの説明になるのだが、そのことに関連して、阿弥陀仏の本願に救われた者はどんな活動をするのか、親鸞聖人の生涯を通して語られた内容は、感動的だった。

親鸞聖人の肉食妻帯のご苦労。現代では想像も及ばない決断であられたに違いない。阿弥陀仏の御心そのままに断行された親鸞聖人、当時なら相当の批難を受けられたであろう。しかも国家による流罪の刑を受けられた。言わば「犯罪人」なのである。
そんなレッテルが貼られた上もなお、親鸞聖人は布教に歩かれた。とても凡人のなせる技ではない。

そんな親鸞聖人の姿に感銘を受け、尊敬する人も少なくはないだろう。

親鸞会もまた、そういった聖人を慕う人たちの集まりなのだと、強く感じる。

2008年1月16日水曜日

世の中安穏なれ 仏法ひろまれ

 前回、親鸞聖人750回忌法要について触れたが、今日はその話題について記しておく。
 というのも、寺から若さんが「750回忌法要の懇志」を集めに来たからだ。

 1軒あたり、5万円だという。結構な額だ。法事を1回勤めてもらう程の額にもなろう。
 今は額が問題ではない。大きな法要を勤めるのだし、親鸞聖人のアニメビデオも制作しているそうだ。アニメについては、親鸞会で見慣れているものだから、さほど新鮮さは感じないのだが。

 門徒として、出さねばならないのなら出す。が、しぶっていると、若さんがこう言った。
「もし懇志を出されなければ、私たち寺の者が、代わって出さなければならないんです。お願いします」
 私はこれを聞いて、すぐにお断りしてしまった。
 いくら何でも、それはないだろう。布施の意味が、違わないかと。


 話を元に戻すが、親鸞聖人750回忌法要のスローガンは「世の中安穏なれ」だ。
 1度聞けば、世界平和でも目指す祈りかとも思う。それはそれで結構なことだと思う。
 このスローガンの元になった親鸞聖人のお言葉が『親鸞聖人御消息』だ。

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは、別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。


 これはよく読めば、往生不定の人、つまりまだ真実信心獲得していない人は、まず救われなさいよ。救われて往生一定の人は、世の中安穏なれ、仏法ひろまれと願いなさいよ、という意味ではなかろうか。
 本当ならば、「往生不定の人は、早く往生一定になりなさい」が、本来のスローガンとしては先ではなかろうか。

 結局、葬式の毎に「故人は浄土へ参りました」と必ず言っている寺としては、門徒すべては「往生一定の人」と決めつけてしまって、さあ皆で「世の中安穏なれ」と願いましょう、とでも言いたいのだろうか。
 煙にまかれたような気持ちになる。

 親鸞会では、聞法の目的を、いつも明確に解説する。むろん、信心獲得の為であり、それは「往生一定」の身になる為である。
 寺では、いつも聞法の目的ははっきりしない。
 そんな姿勢が、750回忌のスローガンに出てしまったのではないかと、私は思う。

2008年1月9日水曜日

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

 1月6日、親鸞会では「初聞法会」と言われるご法話が開催された。
 私も参詣してきた。
 正月というのに、かなりの盛況ぶり。皆さん、聞法熱心であられる。

 内容は前回の続き。親鸞聖人の正信偈の
「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海
 五濁悪時群生海
 応信如来如実言」の4行について。

 特に最初の2行ついて話されたのだが、阿弥陀仏の本願に救われる前と後ではどう違うのか、煩悩はどうなるのか、ということについてが中心だった。

 救いの前後の煩悩については、これも正信偈に親鸞聖人が解説されており、
「已能すい破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧
 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧
 雲霧之下明無闇」とある。

 つまり、真実信心の天を覆うように、救いの前も後も欲や怒りや愚痴の煩悩は変わらない、ということなのだ。
 
 思い出されるのは、とあるお寺さんの法話である。

 私利私欲に走らず、いがみ合いをせず、そういった自己の欲望を抑えて念仏する生活が大事なのだと、法話していたのを思い出す。もちろん、西本願寺の話だ。
 もともと「救い」を明確に説かないので仕方がないのだろうが、どうも最近、寺の話は煩悩を相当問題にしているように思えてならない。

 親鸞聖人750回忌法要で「世の中安穏なれ」のスローガンを掲げているようだが、その解説も同じようなものだった。
 親鸞聖人が望まれた「安穏な世の中」というのは、あくまで「仏法がひろまって」の上であって、「煩悩を抑える」ことによるものではないと思うのだが、私のような者がここで何を言っても西本願寺のスローガンがどうにかなる訳でもないし。
 
「生死の苦海ほとりなし
 久しく沈める我らおば
 弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せて必ず渡しける」

 今回の高森先生のご法話の終盤、出された和讃。
 私はこのご和讃が大好きだ。
 そこには、煩悩を越えた世界がある。