2月3日は親鸞会のご法話で富山に参詣した。
幸い、心配された雪は無く、交通にも全く問題はなかった。
親鸞会館でのご法話は、正信偈について続けて話がなされているが、先月に引き続き
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
の部分についてのお話だった。
特に、阿弥陀如来の本願についての解説が内容の中心となった。
「若不生者不取正覚」の「生」の意味について、その意味の根拠は、本願成就文に求めなければならない、それは成就文の「即得往生住不退転」に釈尊は明らかにされている、という内容であった。
私と一緒に参詣した知人は
「往生の意味がよく分かった。参詣してよかったわ」と喜んでいたのが印象深い。
「往生」と言えば、以前親鸞会の講師から聞いた話だが、「岩波仏教辞典」の「往生の表記」について、一悶着あったそうだ。
それはかれこれ20年ぐらい前になるそうなのだが、「往生」を現世のことにするのか、死後のことにするのか、仏教辞典の内容について、軽い論争があったのだそうだ。
つまり、往生とは死後の成仏についてのみ、という本願寺派側の主張、
現世での往生もあるとする大谷派の主張があり、もめたらしい。
親鸞会としては、「親鸞聖人の著作には、両方の意味がある」という内容で提言したようだ。
知人の語っている姿を見て、ついそんなことを思い出していた。
関係ないが、辞典と言えば、最近めくることがない。
インターネットに慣れると、検索で調べたいものが一発で出てくる。便利なのはいいが、これでいいのだろうかという気すらする。
便利なものを求めていると、別のところで大切な物を失っていることさえある。
楽を求めるのは、ご用心だ。
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